海と毒薬を読んで

こんにちは、やなべです。

 

日本文学の名作を読み漁っています。海外文学作品に比べると、ボリュームとしては短いのですが、一行ずつ慎重に読み進めていくからこそ、表現の巧妙さや文の流れの自然さに気づかされることが多いです。今回は、キリスト教作家として有名な遠藤周作の海と毒薬を紹介します。聖書という成文の倫理規範のあるキリスト教からみた、日本の個々人の倫理観の危うさを描いた作品です。

 

 

勝呂医師との出会い

肺病のため気胸治療を受けていた私は、西原という住宅街に引っ越したおりに、新しい医院を探していました。見つかったのは勝呂医院で、勝呂医師は不愛想ながらも技術は確かなのでした。ふとしたことから、私は勝呂が九州の大学病院出身であることを知ります。たまたま、その病院のある市で義妹の結婚式があり、参加者に病院関係者がいたことから、戦時中に勝呂がかつて米軍捕虜の生体解剖実験に関与していたとしていたことを知ります。

 

勝呂の過去

勝呂の勤務する大学病院では、医学部長の大杉が急死したことにより、跡取りの騒動が起こっていました。勝呂の師匠である橋本教授が順当にいけば医学部長に昇進するはずでしたが、対抗馬の権藤教授が軍部とのつながりをもち、勢力拡大しているところでした。実績を作るため、橋本は大杉医学部長の親族の結核患者の手術をするのですが、あろうことか失敗してしまいます。

 

病院では、結核患者に実験的な手術が行われていました。勝呂の担当患者も、余命いくばくもないところ、助教授の柴田医師が新しい手法を試すというのですが、手術前に自然死してしまいます。自らの出世のため、自身の医学的興味のために、手術で人命が失われていることに衝撃を受け、勝呂医師は自暴自棄になりますが、同僚の戸田医師は冷静に、医学とは犠牲の上に成り立つもので、とりわけこの時代は、空襲でも大勢の人が死んでいるのだから、手術で死ぬことくらい驚くことではないと言います。

 

勝呂の担当患者が死んだ日の夜に、勝呂と戸田は助教授の柴田医師に呼ばれます。橋本教授が先日の手術失敗により、部長選では劣勢に立たされている。そこで、対抗馬の権藤教授と手を組んで、米軍捕虜の生体解剖実験をすることになったので、参加してもらいたいと言うのです。自暴自棄になっていた勝呂は、よく考えもせず承諾します。しかしふと、これは逃れられない運命である気がして、もし運命の流れから自由にしてくれるものが神ならば、神はいるのかと戸田に言います。

 

上田看護婦の手記

上田看護婦は、生体解剖実験に参加したうちのひとりです。かつて、彼女は結婚しており、満鉄勤務の夫の転勤により大連に住んでいました。しかし、そこで死産し、のちの手術により子供の産めない身体になってしまいます。さらに、夫の浮気が原因で離婚をして日本に戻ると、もといた大学病院で働き始めます。そこでは、橋本教授の奥さんであるヒルダという外国人が病棟で慈善活動をしていました。

 

ある日、患者が自然気胸で苦しんでいるときに、上田は医師の指示により麻酔薬を打とうとします。すなわち、治療せずに患者を安楽死させるということです。それを元看護士のヒルダに発見され、殺す権利は誰にもない、あなたは神の罰を信じないのかと言われ、謹慎処分になります。もう大学病院を辞める覚悟でいたとき、橋本の助手である浅井医師から、生体解剖実験の話を持ち掛けられます。

 

戸田の手記

手記のもう一人は、勝呂の同僚の戸田のものです。戸田は医者の息子で、成績優秀の模範生でした。先生からは特別扱いを受けていましたが、大人の見ていないところではものを盗んだり、いじめを放置したりする子供でした。どうすれば大人が喜ぶかを熟知していた戸田は、他人の目や社会に罰せられることのみを恐れ、良心の呵責を感じない人間に育っていきました。

 

大人になってからも、戸田は従姉を姦通したり、女中を妊娠させて堕胎させたりするのですが、その事実は世間に知られることなく、罰を受けることもありませんでした。戸田は勝呂と空襲時の偵察のため病院の屋上に上りますが、そこで鈍いうつろなうめき声のようなものを聞きます。そのとき、彼は自分がいつか半生の報いとして罰を受けることを悟ります。しかし、あくまでそれは社会の罰に対しての恐怖であり、自分の良心に対してではないのです。

 

生体解剖実験の当日

ついに、生体解剖実験のときが訪れます。勝呂は手術室のノブを握ったときに、はじめてこれから自分が人間を殺そうとしている実感を得るのです。米軍捕虜は、これから何をされるか分からず、医者を信用している様子です。勝呂はこの状況に耐えられなくなり、部屋から出ていきたいと申し出ますが、聞き入れられず、手術室の後ろの方で解剖の行く末を見守ることになります。

 

見かねた戸田が、捕虜に麻酔をかけていきます。やはり参加を断るべきだったと後悔する勝呂に、自分たちは同じ運命に加担してもう進んでしまっていると言います。勝呂は目をつむり、自分は殺人ではなく、いつものように本当の患者を手術していると思い込もうとしますが、そのうちに肺を切除された捕虜は死んでしまいます。

 

その後の勝呂と戸田

生体解剖実験の後、勝呂は大学病院を辞めることを決めます。一方の戸田は、別のことで苦しんでいました。生きた人間を殺しても、良心の呵責、自責の念、後悔のような感情が起こらなかったからです。勝呂は、戸田に苦しくはないのかと尋ねますが、戸田は良心なんて考え方ひとつでどうにも変わるものだと言います。また、世間の罰を受けたところで何も変わらない、なぜなら自分たちを罰する人もまた、同じ状況に置かれたら自分たちと同じことをするかもしれないと思うからだと言います。

 

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キリスト教のように心の規範が文章化されていないことで、日本人の良心は周囲の状況や自分の立場により、いくらでも変わってしまう恐ろしさを描いた作品でした。この事件の後、裁判が開かれて生体解剖実験の関係者には刑が下るのですが、そうなる未来を予感しながらも、良心の呵責に襲われることなく、実験は行われてしまうのです。恐ろしいのは、人体実験に加担することを積極的に良しとしない人も、流れに飲み込まれてしまうということです。大多数の人が、なんとなく周囲の状況に合わせて心を変えていくうちに、良心の呵責を感じなくなっていくという物語でした。