ブログを移転しました

こんにちは、やなべです。

 

この度、はてなダイアリーからオリジナルのブログに移転しました。まだまだ、レイアウトや使い勝手などが分かっていないのですが、少しずつ形にしていければと考えています。今後とも、よろしくお願いいたします。

 

移転先

yanabe.blog

どんな本を読んでいくか

こんにちは、やなべです。

 

ブログの材料にと、読書習慣がついてきました。小説や実用書を読み漁っているのですが、どんな本を読んでいったらいいのかと迷うことがあります。アマゾンのお勧めの本を見ながら興味のありそうなものを順に選んでいっているのですが、果たしてこれでいいのかと思ってしまいます。多読もいいけれど、ある程度体系立てて本を選んだ方がいいのかなと。そんな疑問があったので、今回は読書で何を学ぶのか、どういう読書をしていけばいいのかの本を読んでみました。

 

 

価値を生み出すのに必要なこと

情報が氾濫した現代において、どのような人が価値を生み出すのでしょうか。それは持続可能な教養を持ち合わせた人であると筆者は言います。それは、単に情報を持つのではなく、自分なりの文脈に気づき、俯瞰して情報を位置づけられるということです。持続可能な教養のためには、まず物事を抽象化する思考を鍛えること、そして気づく能力を磨くことが必要になります。そして、これらの能力は読書をすることで養われるのです。

 

抽象化する思考と気づく能力

抽象化というのは、物事の本質を定義することです。私は、抽象化というと具体的な物事の中にある共通部分を見つけだすことと理解しているのですが、筆者は物事をゼロベースから考えて分析する思考力であるとしています。ここがまだ理解できないところなのですが、とにかく読書をするときには頭の中で抽象化が行われているので、読書は抽象化の練習になるということです。また、気づくというのは知識と知識をつなぎ合わせて自分のものにすることをいいます。そのためには、物事を俯瞰して見るための脳内地図を作り上げることが必要です。この脳内地図が見えるぐらいにまで情報を咀嚼し、深めるためにも本が役立ちます。

 

教養を身に着けるための読書

さて、現代において価値を生み出すためには、持続可能な教養を持つことが必要で、そのためには、抽象化する思考と気づく能力が必要なところまで説明が進みました。ではこれらの能力を育てるためには、どのような読書をしていけば良いのでしょうか。筆者は、ある程度俯瞰してものを見ようという目的意識を持って本を読むことが大切であると言います。自分が深めたいと思う分野を絞って、それを掘り下げるように本を選んでいくのです。

 

また、読後に自分の中に残った知識や考えをざっくりと頭に入れて、フックがかかった状態にしておくことです。そうするためにも何かを読んで知識を得たとき、適度に忘れていくことが重要です。読んだ内容を細かく思い出せるうちは、単に著者の主張を頭の中でリピートしているだけで、それは自分の頭の中に入ったとは言えないのです。頭の中で溶けてしまってよくわからなくなったという状態でも、脳の潜在意識には残っているので、それぞれの断片は記憶に上ってくるのです。出典が明らかではなくなるまで頭の中に混ざり合っているからこそ、新たな閃きが降りてくるのです。

 

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どんな読書をしていけばいいのか、という疑問から手に取った本でしたが、期せずして価値創造という目的のための読書という視点で書かれた本を読むことができました。到達点は、抽象化された知識をつなぎ合わせて、自分の物語を紡ぐことで、これにより創造的な発想ができるようになるのです。色んな本を読んでいると、ある話が別のところにも出てきたなと感じることがあります。そして、同じテーマが何度か出てきたときに自分の中ですとんと落ちるものがあります。はっきりと、どの本に何が書いてあるかを覚える必要はなく、なんとなくこういう話があったな、というのがふと思い出されるということが重要なのだと思いました。

続けることの効用

こんにちは、やなべです。

 

このブログを毎日更新して、二か月が経とうとしています。二か月前の自分に声をかけるとしたら、よくぞブログを始めてくれたという感謝の言葉です。正直、始めた頃は毎日更新がいつまで続くかという疑念を持っていましたが、なんとか続けている自分を褒めてあげたい、そんな気持ちがします。毎日更新をして思うのは、何かを続けるということには大きな意味があるということです。毎日仕事をしていた頃は、それを当然のことのように捉えていましたが、よく考えてみると毎日それを続けていたことが、金銭的のみならず、精神的にも生活を形作っていたのだと気づきました。

 

生活を形成するもの

精神的にも生活を形作るというのは、大袈裟かも知れませんが、イコール自分とは何者であるかを規定することだと思います。自分は毎日これを続けているということが、自分を自分たらしめているのです。私の場合は、精神の病気で前職を辞めてから、続けていることが途絶えてしまい、自分のアイデンティティーを失っていました。毎日続けることができることが、これほど尊いと思ったことはありません。自分が何者であるかを失ってしまうと、途端に人生がお先真っ暗に思えていきます。生活を形成する軸がなくなると、こんなにも人間は脆いのかと思います。

 

絶望からの脱却

自分が何者であるかを失い、人生に絶望していた頃、私は自分の人生から必死に逃げようとしていました。ここには書けないような生々しいことを考えては、以前の自分に戻りたいと熱望していました。しかし、済んでしまったことはもう取り返すことなどできないのです。この思考のループを永遠に繰り返していたのが、二か月前の私でした。そんな自分の転換点は、今も続けているバイトで以前よりも分かるようになったという感覚でした。失ってしまったものを悔やんでいた私でしたが、一方で新しいことを覚えていくことを思い出したのです。

 

ブログを始めたきっかけ

そこからは、ブログを始めるまであまり時間はかかりませんでした。もともと文章を書くことは嫌いではなかったのですが、毎日続けて文章を熟達させていきたいと思うようになりました。こんな前向きな気持ちになったのは、久しぶりのことでした。この機会を逃してはいけないと思った私は、まずは無料のブログから始めてみようと思い、このブログを立ち上げました。人間の心の回復力というのは、まさに神秘です。どんなに絶望していても、回復するんだと不思議に思います。

同志少女よ、敵を撃てを読んで

こんにちは、やなべです。

 

このブログを始めた頃から、名文とはどんなものなのかが知りたくて、文学史で有名な作品を読み漁ってきました。そこでは、川端康成の美しい日本語に触れたり、太宰治の巧みなストーリー展開に引き込まれたりという体験をしてきました。さて次は何を読んでみようかと考えて、夏目漱石草枕などに手を出してみたのですが、文章が難解でなんとも読みづらい。そこで、ここらで一区切りを考えて、現代の小説にいったんシフトしようかと思います。どんな小説を読もうかとインターネットで検索していたら、本屋大賞なるものを見つけました。

 

今回読んでみたのは、今年の本屋大賞を受賞した「同志少女よ、敵を撃て」です。舞台は、第二次世界大戦下のロシア西部地域で、ドイツの侵攻に立ち向かう女性狙撃手がこの物語の主人公です。読んでみると、なかなか読みやすくて、先が気になりどんどん読み進めることができました。特に最後の数ページは、今までの伏線が回収されるような納得感があります。また、題材が現在の政界情勢とも重なり、どこか遠い世界の話と割り切ることはできず、現実感を伴った重さがあるのも特徴です。

 

 

物語は、ロシア西部のとある小さな村から始まります。その村には、セラフィマという少女がいました。セラフィマは、母親から狩りを習いながら暮らしていました。村にはセラフィマと同年齢の男の子がいて、名前はミハイルといいます。村の誰もがセラフィマとミハイルは将来結婚するものだと思っていますが、そのミハイルはソ連とドイツの戦争が始まると志願兵として戦場に出ていきました。突如として始まった戦争でしたが村の暮らしは変わりありませんでした。

 

セラフィマは、村一番の狩人でしたが学校の成績も良かったため、この秋にモスクワの大学に入学することが決まっていました。セラフィマは外交官となり、戦争が終わった後はドイツとの友好に尽力したいと考えています。その日も、セラフィマは母親と狩りに出かけていて、一匹の鹿を仕留めました。一撃で頭を打たれた鹿は、体を震わせることもなく四肢を伸ばして即死します。それを見たセラフィマは、死骸は生きているものと形は変わらないのに、一目で命がないと分かるのは何故なのかと思います。

 

狩りが終わり帰る途中、セラフィマと母親は村の異変に気付きます。いつもの老人の薪割りの音がせず、代わりに村にはない車のエンジンの音が聞こえます。そのとき、村から叫び声が聞こえます。ドイツ兵が村を占拠していたのです。村人は、ドイツ兵の言われるがままに並ばされています。セラフィマと母親は、ドイツ兵に気づかれないように腹ばいになりながら、村が見渡せるところに移動しました。ドイツ兵は、この村にゲリラ兵がいるはずで、名乗り出ろと叫んでいます。

 

村の老人が、そんな人はこの村にいないと言いかけたとき、ドイツ兵は老人に向かって銃を発射します。老人はそのまま崩れ落ちました。このままでは、村の人が皆殺しにされてしまうと怯えるセラフィマに、母親は銃を貸してくれと言います。母親が照準をドイツ兵に向けたとき、母親は何者かにより狙撃され、頭を打ち抜かれます。その銃声と合わせるかのように、村人はドイツ兵に惨殺されていきました。

 

セラフィマもドイツ兵に見つかり、村に連行されます。そして、セラフィマの額に銃口が突き付けられ、もはやこれまで自分も死ぬのかと思い目をつぶったときに、外から銃声がします。目を開けると、そこにはドイツ兵の死体がありました。ソ連赤軍が現れたのです。憔悴しきったセラフィマの前に、赤軍の女兵士が現れます。女兵士はセラフィマに、戦いたいかそれとも死にたいかと聞きます。

 

村の人も家族も皆死んで、私も死にたいとセラフィマが言うと、女兵士は家のものを片っ端から壊していき、セラフィマの母親の遺体に火をつけたのです。怒りのあまり、セラフィマが銃を女兵士に向けようとした瞬間、女兵士はセラフィマのみぞおちを蹴り上げます。セラフィマは、ドイツ軍もあなたも殺して敵を打つと言います。女兵士は狙撃兵訓練所の教官でした。そしてセラフィマをそこの訓練生にすると言います。女兵士は、イリーナと名乗るのでした。

 

この後は、本を手に取って読んでみることをお勧めします。狙撃訓練所ではどのような訓練が行われ、そしてどのような出会いがあるのか。また、セラフィマはそこで何を学んでいくのか。さらに、訓練所を卒業して戦地に赴く狙撃兵たちはどんな惨状を目の当たりにするのか。戦地での仲間の死とどのように向き合っていくのか。その後、セラフィマは母親を狙撃したドイツ兵と巡り合うことになるのですが、親の敵を打つことはできるのか。その目で、ぜひ確認してみてください。

こだわりという名の潔癖症

こんにちは、やなべです。

 

私は、文章の形にこだわりを持っていて、その度合いが潔癖症とも言える域に達しています。困ったことに、それが災いして自分の書いた文章に納得がいかず、何度も書いては消してを繰り返すうちに、何も書けていないという状態になったりします。最近はその傾向が増々強まっていて、書くのが進まないのは元も子もないなあと、困り果てています。この潔癖症と何とかして付き合っていくことが、これからの課題になるのだと思っている次第です。

 

解決策①:ブレーンストーミング

そんな私の今のところの回答は、それでも書いていくしかないということです。論理展開が怪しいところがあるとか、文章の流れが途切れがちなところとか、考え始めたらきりがないので、とりあえず文章にしてしまおうという作戦です。これは、とにかく思いついたことを言葉にして書き出していくという手法です。そうして出来上がったカオスな文章を最初から眺めてみると、ここは論理的に繋がるなとか、この表現は意外と良いなとか、思うところが幾つか出てくるので、あとは切り貼りをして繋げていくと、それっぽい文章ができるという訳です。

 

解決策②:マインドマップ

そんなことを考えていると、今日新たな手法を見つけることができました。マインドマップを活用する方法です。書評をしている文学ユーチューバーのベルさんが、自分の動画ができるまでを紹介する動画を出していて、自分もこんな風にマインドマップを使ってまずは構成を決めてから、文章に起こすということをやってみようかなあと思い始めました。最初から文章にしようと思うと、私の潔癖症が出てしまい、先に進めなくなるので、大枠を文章ではなくマインドマップで作ってしまうのです。

 

youtu.be

観察力を養うこと

こんにちは、やなべです。

 

先日、とある発信者の方が、発信とは自分の中にあるストーリーを語ることであるという話をされていました。そして、ストーリーの典型が学びであり、何かのきっかけにより以前と現在ではこのように物事の捉え方が変わりました、というものです。きっかけは、読書であったり日常の出来事だったりするのですが、いざ実践しようとすると、特に日常のできごとから学びを得るには、修練が必要であることが分かります。具体的には、観察力を鍛えて学びの解像度を上げるということだと思うのですが、そのために何が必要なのかを、今回は学んでみたいと思います。

 

 

仮説のサイクルの無限ループ

結論から先に言うと、良い観察がされている状態というのは仮説のサイクルが無限ループしていることです。仮説のループというのは、仮説を起点として、対象の観察が行われることで問いが生まれ、新しい仮説に更新されるという循環です。例えば、万有引力が存在するという仮説を通して日常のできごとを観察したときに、リンゴが木から落ちる事象から、何がリンゴを地面に引き付けているのか?という問いが生まれていくというように、仮説を通して事象を見ることで循環します。

 

なぜ仮説の言語化が必要なのか

人間は、完全に客観的に観察することはできず、まず脳の中で何を見ようか先に決めていて、脳が見たいものを追認するように見ているのです。つまり、認知が先にあり、無意識に認知に沿うように現実を解釈しようとします。この無意識をできるだけ意識に上げるためには、まず目に見える対象を言語化して、仮説と対象のずれを観察することが必要となります。また、現代は情報が溢れていて、調べればすぐに分かるようになるかもしれませんが、敢えてそういうものを手放し、仮説だけを武器にすることで、観察力が磨かれていきます。

 

観察は人間の学習過程

学ぶという行為には段階があり、①まずスキルを身につけることで無意識的に行えるようになる学びで、その上で、②身につけているスキルを意識的に行えるようにする学びがあります。観察することは、この意識的に行う学びの段階に関係しており、そこでは仮説の無限ループが起きており、いつまで経っても分かる状態にはなりません。この分からないという、あいまいな状態を受け入れ続けることが、学んでいるということなのです

 

あいまいであることは、何もしないこととは違います。学ぶ前の状態は、あいまいを受け入れているのではなく未分化の状態です。学びはそこから始まり、まずは上記の①の段階として、型を模倣して無意識的に型が身につけることが有効です。この学びを前提として、②の段階に移り、仮説と観察を繰り返して、答えのないあいまいの世界に踏み込んでいきます。分かるということは、あくまでも①の段階の到達点であり、学習の目的ではありません。

 

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私たちが通常分かると言っているのは、意味合いとしては知っていることと同義なのだという一節に、はっとさせられました。知識を使いこなせるようになるのは、あくまで学習の途中段階なのです。本を読んだり、膨大な情報から何かを調べたりすることは理解するためには必要なことです。まずは、それをしなければ観察を伴った学習の段階に進むことはできません。大切なのは、理解したという状態で学習を止めないことでむしろそこから、無限の仮説のサイクルが始まるのです。

 

そう考えると、学びのストーリーを発信するというのは、継続的な仮説のサイクルの途中を公開することになるのではないかと思います。仮説を通して現実を観察し、現実は仮説と比べてどう違っていたか、という視点で記事を書くことで、学びが生まれるという仮説を立ててみました。ブログを書くということは、言語化することが前提にあるので、仮説のサイクルを回すのに適した表現方法です。まずはこの仮説のもと、記事を書くことを試してみたいと思います。

表現するということ

こんにちは、やなべです。

 

私は文章を書くことが好きですが、文章で自己表現をしたいのかというと、何か違うなとも思います。これを音楽に置き換えて考えてみると、私はピアノを練習して発表することが好きですが、ピアノを通して自分を表現したいというよりは、曲の良さを誰かに伝えたいという気持ちが原動力になっています。同様に、ブログで小説や実用書を紹介する原動力は、書籍から得た知識や考え方に価値があると思うから、誰かに伝えたいという想いに由来しています。

 

なので、ブログの記事を書くときは、自分がどのような価値を見出したのか、という考えをまとめることを意識する必要があります。この作業がうまくいったときには、納得のいく記事が書けたなと思います。しかし、自分の考えを抽出するということは簡単ではなく、いつもパソコンの前で文章を書いては、これは違うなと思い消して、また書き直すという作業を繰り返しています。自分の考えを言葉に表すには、どのような過程を踏んでいけばいいのかを考えるために、この本を読んでみました。

 

 

自分の考えができるまで

何かを表現するときに、最も重要なのは自分の言葉を作るということです。自分の言葉を作るためには、自分の考えを自覚しそれを表現することが必要です。自分の考えというのは、次のような過程を踏んで形成されます。

  1. 好きだという気持ちから興味関心
  2. 問題関心
  3. 問題意識
  4. 自分のテーマ

最終目標は、自分のテーマを認識することです。自分のテーマが、これまでの経験と結びつくことでストーリーが生まれ、主張につながります。そのためにまず必要なのは自分が生きたいように生きているという、自由の感覚です。私たちは好きの元で自分の興味関心に即していますが、いくつかの興味関心がひとつの方向性にまとまると、問題関心になります。これまで漠然としていた好きということが、いくつかの問題に絞られて具体的な形となって現れるのです。さらになぜ自分はその問題に関心を向けるのかを考え始めたときに、問題関心は問題意識となります。こうして、問題意識を中心に日常に起こることを考え始めたときに、自分のテーマが生まれます。

 

なぜを繰り返すこと

上記の過程は、なぜを繰り返すことにより循環します。自分はなぜ興味関心を持ったのかに戻っていくのです。このことにより、自分の目指しているものが次第に明確になっていきます。このなぜを追求する行為を繰り返すことで、言いたいことが明確になっていくのです。この問答に自分でも納得したときに、オリジナリティが生まれ、他者を説得するものになります。つまり、表現することは、もやもやする自分の中から掴み取ったテーマについて、言葉を模索しながら言いたいことを主張として改めて見出し、共有するための言葉の論理によって、筋道立てて他者に伝えようとすることです。

 

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実は、冒頭の文章はこのなぜを突き詰めていった結果、得られたものです。私は文章を書くことが好きだけれども、なぜ好きなのか。自己表現できるからというよりは、価値を伝えられるからなのではないか。価値を伝えることになぜ意義を感じているのか。今までの経験としての音楽で、同じような意義を感じていた。もともと、価値を伝えることが好きだったのではないか。それがなぜ好きなのか。と問答しているうちに、自分の考えが生まれてくるのだと思います。

 

また、この本ではなぜの問答を他者と共有することが大切だと述べられていました。自分の中で完結するのではなく、他者からのフィードバックをもらうことで、自分の考えをより確実なものにしていくのだそうです。そう考えると、現状のブログだけでは他者と問答を共有することはできないので、他にも自分の考えを発信してフィードバックが得られるような仕組みを作れれば良いと感じています。