人間失格を読んで

こんにちは、やなべです。

 

日本文学の最高傑作とも呼ばれる、太宰治人間失格。非常に暗く、救いのない話というイメージがありましたが、この機会に読んでみました。

 

 

この小説の主人公は、人間を信じることができないという病により、ゆくゆくは自分を破滅させてしまうのですが、その過程が生々しく、読んでいて苦痛になる部分もありました。それは、読者にも、この主人公の抱えている苦悩に思い当たる節があるからだと思います。普段、感じないようにしている孤独感や人間への恐怖心を、主人公の独白を通して、これでもかと突き付けられるところに、この小説の凄みがあるのだと思います。

 

主人公の大庭葉蔵は、人間を信じることができないという病に侵されていました。そのため、幼少の頃から自分の本心を表現することができず、道化を演じることで、環境に適応していました。周囲はこれをおちゃめな葉蔵として捉え、まさか計算して演じているとは思いませんでしたが、これを見抜いた友人から、君は将来女性に惚れられて生きるという予言めいたことを言われるのでした。

 

そして、この予言は的中し、葉蔵は女性の家を転々とする生活を送ります。その中で、無理心中をしたり、お酒や薬物に依存したりと生活が退廃的になります。その後、葉蔵は年下の純粋な女性と結婚するのですがその女性が純粋さのあまり、男に強姦されてしまいます。純粋に人を信じることが、このような結果になり、では一体何を信じていけばいいのかという疑問とともに、退廃的な生活からボロボロになった彼の独白は終わります。

 

人間を信じることができない、自分をダメにしてしまう方向に進んでいってしまう、そんな葉蔵の姿は悲劇的で見ていられなくなるのですが、一方で、実際に読んでみると何かしらの救いがあるようにも思えました。それは、人間不信という罪を主人公がこれでもか、というくらいに被り、その罰として自らを破滅させていくことで、読者もまた抱えている、同じような罪を軽減するような気がするからなのではないでしょうか。キリストが人類の罪を引き受けたように、この物語の主人公は、誰もが抱える不信や不安を一手に抱え込み、自らを人間失格だと悟るまでに至ったように思います。

論語と算盤を読んで

こんにちは、やなべです。

 

本日のやなべ読書は、論語と算盤です。著書は渋沢栄一さんで、近代日本の産業基盤を築いた偉人です。渋沢さんは、江戸時代末期に豪農の家に生まれ、初めは武士を目指しました。しかし、万国博覧会随行としてフランスに渡ったとき、現地で近代資本主義を基礎とした経済力に圧倒され、日本の近代化のためには、当時低い身分とされていた商人の地位の向上が必要だと気づきました。

 

その後、当時の大蔵省に迎え入れられ、明治維新に関わる様々な改革に乗り出しますが、尊敬する上司が退職するなどをきっかけに、大蔵省を辞めてしまいます。そして、自分の人生の志を実業に据えたことで、銀行や電力会社などの今日にも続く大企業を創設します。

 

 

さて、この本のテーマは、実業は道徳を基盤にして行うべしということです。そして、道徳というのは、中国の思想家孔子の発言集である論語とそれをもとにした武士道を指すのだといいます。世の中にモノを行き渡らせる実業が道徳を基礎として富を形成したとき、それは国の継続的発展に繋がるのです。

 

本書では、論語に基づく道徳の例がいくつか挙げられていますが、その中で根幹となるのが人格を磨くということで、良心的であることや信頼されることなどの基本であり、世の中にモノを行き渡らせて豊かにしたいという気持ちなのだそうです。自分の利益のみを考えていたのでは、継続的な発展は望めないということです。

 

その上で、論語に書かれている生き方の中から私が印象に残った箇所を紹介します。

 

それは、志を立てるということです。志には、根幹となる大きな志と、大きな志を基に発生する小さな志があり、人生を何に捧げるかの大きな志を自分の得意なことから見いだすというのが大切になります。

 

私の場合は、誰かの心を動かす価値のあるものを生産する、というのが今のところの志ですが、まだ具体的に何を提供するのかは決まっていません。正直焦る気持ちもあります。文章を書いて価値生産できればという気持ちを、どのような行動に結びつけていけばいいのか、今のようにブログの毎日更新で足りるのか。

 

本書には、天命を待つということも書かれています。世の中の事情というのは、原因と結果の因果関係があり、その関係を無視して形成を変えることは難しいのだそうです。世の中の流れの中で生きていく私たちは、成り行きを広く眺めつつ、勉強をしながら気長にチャンスが来ることを待つことも必要なのです。

カラマーゾフの兄弟を読んで

こんにちは、やなべです。

 

先日、ドストエフスキー罪と罰を読んだ感想を記事にしました。登場人物が多くてその呼び名も様々あり、まずは人物像を把握するのが難しいところから始まり、さらに人物の詳しい説明がサイドストーリーのように展開されているので、本筋以外のところで時間と労力を使い、なかなか読み進めるのが難しい作品でした。しかし、読了感はかなり感じられ、一度読むだけでは追いきれなかったストーリーをもう一度読んで確かめてみたいという気持ちにもなりました。

 

音楽でもそうですが、長いストーリーを把握するためには、まずは何度も聴いて全体像がなんとなく頭に入るようにして、少しずつ細かいところが分かってくるという方法を取るしかないのかなと思いました。そして、ドストエフスキー罪と罰よりさらに長大で、登場人物の関係も複雑なカラマーゾフの兄弟を今回、読んでみることにしました。一度では分からないところもあったので、例によって中田敦彦さんの動画で補足して理解しました。

 

 

大まかなストーリーとしては、フョードルという零細地主とその子供の兄弟である、ドミートリイ、イヴァン、アレクセイの3人を中心に展開する恋愛模様とその後に起こるフョードル殺人事件の真相解明、そしてキリスト教のいう神は存在するのかというテーマで話が展開していきます。

 

私は、初見で読んでみて、恋愛と殺人事件の展開は本筋と認識できたのですが、キリスト教のテーマはよく分からないので読み飛ばしてしまいました。あとで中田敦彦さんの動画を見て、そのテーマの部分である、イヴァンとアレクセイとの酒場での会話が前半のハイライトであるとことを知って、もう一度読んでみようと思った次第です。

 

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本作を読み進めていくと、父親のフョードルは何者かに殺害されるのですが、その嫌疑が息子のドミートリイにかかります。裁判では、状況証拠がいくつか提示されたあと、ドミートリイ本人が書いた犯行声明ともとれる手紙が提示されたことで、彼は有罪判決を受けてしまいます。シベリアでの労働が言い渡され、獄中でドミートリイは自分が罰を受けたことで、これまでの人生での自身の行いを振り返り、これからは新しい自分として人生を歩んでいくことを決意します。

 

罪をかぶって罰を受けることとなった彼の心境を考えたときに、父親殺害という事件だけでなくこれまでの自分の人生の中で、罪を犯してきたという自覚が生まれただけでなく、実は心の底では罰されることを望んでいたのかもしれないと思いました。キリスト教では罪は許されるとされていますが、それは何をしても良いという訳ではなく、罪を犯したら罰を受けるという過程を必要としているのではないでしょうか。

 

法律上の罪だけでなく、私も身に覚えがありますが、大小はあれ色んな罪を犯しています。それは、人間が未熟だからで、人との関係の中では他人を傷つけてしまうことが避けようのないことです。その度に、罪悪感を覚えて生きていくのはあまりにも辛すぎるから、何か大いなるものから罰を受けて許されるというのは、ある意味救いなのかもしれません。

ショパンお勧め曲選

こんにちは、やなべです。

 

ピアノの詩人と言われたショパン、生涯に作曲した作品も多くがピアノ独奏曲であり、美しい旋律や独自の新しい表現方法を追求したことから、そう呼ばれています。誰もが一度は聴いたことのある曲から、マニアックなポーランド民族音楽調が強めの曲まで様々ありますが、私が実際に弾いたり聴いたりした中で、特に好きな曲をいくつか紹介したいと思います。

 

紹介する曲の中には、演奏時間が長く途中で飽きてくるかもしれないものもあります。ですが、クラシック音楽は特に何度も聴くことで、だんだんと印象が変わるものが多いです。そこで、今回はマニアックレベルを★1~3で表現してみました。★1はわりと簡単に馴染めるもの、★3は何度も聴いてその良さがじわじわと伝わるものです。それでは、★1つから順番に紹介しましょう。

 

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マニアックレベル★です。ノクターンのうちの一曲で、淡々と流れる左手の伴奏と歌う旋律の右手が対照的です。同じ旋律が何度か登場したあとに、曲は盛り上がりを迎え、最後は綺麗な和音の音階で締めくくります。ノクターンは日本語では夜想曲と呼ばれ、夜に弾く抒情的な曲という意味で、比較的短めなのが特徴です。ノクターンという名前の特定の曲があるわけではなく、クラシックにおける小品のジャンルのようなものと捉えると良いと思います。

 

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マニアックレベル★★です。曲全体の構造をつかむまでは少し長く感じますが、慣れてくるとあっという間という感じの曲です。ショパンはバラードと呼ばれる曲を生涯に4つ作曲していますが、そのうちの最も初期のものです。フィギュアスケート羽生結弦選手がショートプログラムの音楽に使ったことでも有名です。フィギュアスケートの場合はだいぶ端折っているので、ぜひ最初から最後まで聴いてみてほしいと思います。

 

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マニアックレベル★★★です。先ほどと同じバラードですが、今度は晩年に作曲されたものです。先ほどのバラード1番は、キャッチーな旋律で分かりやすいのが特徴ですが、こちらは円熟した底でふつふつと煮えるような曲だと思います。最初から同じ旋律が何度も繰り替えされていくうちに、だんだんと盛り上がっていくという構造です。

想いを伝える

こんにちは、やなべです。

 

前回の記事で、誰かの心を動かすものには価値があるというテーマを扱ってみました。ふとしたときに流れた音楽がある人の心を動かすことで、行動につながったという話です。心を動かすものって、色んなものがあります。私の場合は、良い音楽や言葉が琴線に触れることが多いですが、人によってはスポーツだったり、美味しい料理だったり様々です。

 

私がブログを続けているのも、自分の言葉で誰かの心を動かすような価値生産をしたいという想いがあります。しかし、果たしてどんな言葉や文章が人の心を動かすものになりえるのかは分からないでいました。

 

私がブログを始めるきっかけとなった、あんちゃさんの記事には、生き様で人の心を動かす発信力というものをテーマにしています。生き様というのは、その人の大切にしている哲学が体現されたようなものだと思います。誰かの哲学に触れたときに、人の心は動くのかも知れません。

 

さて、そんな疑問を胸に、またまた読書をしてみました。人の心を動かす言葉とはどんなものなのかについて、考えてみましょう。

 

 

結論から言うと、人の心を動かす言葉には、その言葉を発した人の想いが込められているということです。ここで、想いを含めた心と魂の構造とこの本の著者が呼ぶものを解説すると、次のようになっています。

 

コップに例えると、心はうわずみで魂はその下にあるもので、心はコロコロと変化していくのですが、魂はその根底で変わらないものなのだそうです。うわずみの心には、理性と感情が存在し、バランスを取っています。一方、魂には想いが存在しています。そして、この魂にある想いが言葉になったときに、それは人の心を動かすものになりうるのです。

 

先程の生き様というのは、想いが志に昇華したものだと言えます。だから、生き様からしみ出した言葉は、人の心を動かすのです。

 

そして、想いを言葉にするには、一度うわずみである感情と理性を言葉にして掃き出す必要があるのだといいます。カウンセリングなどもそうかも知れませんが、自分の頭でもやもやと考えていたものである心を、感情と理性の有り様をそのまま掃き出すところから始まり、その後に想いが出てくるという順番で、進んでいくのだそうです。

 

ブログを書くときも、事前に頭の中でどんなことをテーマにしようかと考えてはいるのですが、いざ文章に掃き出してみると、思いもよらないことが文章に出てきて、自分でもこんなことを想いとして持っていたのかと気付かされることがあります。

心を動かすもの

こんにちは、やなべです。

 

先日、某牛丼屋に行ったときに店内ラジオでこんなストーリーが紹介されていました。テーマは、自分に影響を与えた音楽。とある就活生が内定が出なくて悩んでいたときに、偶然流れていた曲を聴いて、再び頑張ろうと思いたち、その後見事内定を勝ち取るというものでした。

 

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これって、作品が誰かの心を動かした瞬間なのだなあと思い感慨に耽りました。作品の制作者によって、作る目的は異なると思いますが、自分の作品が誰かの琴線にふれるというのは、制作者冥利に尽きるのではないでしょうか。

 

私はスポーツをしないし、興味もあまりないので、皆がスポーツを見ることでどんな気持ちになるのかよく分かりませんでした。よく言うのがスポーツ選手が、自分の姿を見て勇気を与えたいということですが、それがどういう意味なのかと思っていました。

 

しかし、音楽に置き換えて考えると、スポーツ選手が言っているのは、自分の姿を通して人の心を動かすということなのだろうと思い立ちました。何かの価値って、それを通して誰かの心を動かすということなのかも知れません。

価値生産していく生き方

こんにちは、やなべです。

 

私は、前職のときは、兎に角ものを買う仕事をしていました。学校の事務をしていたのですが、教育活動で使う物品の希望を年度末にとりまとめて、翌年度にどんどん買っていくというものです。しかし、買ったものがどのくらいの価値を産み出しているかというのは不明だったし、自分のやったことがどのくらいの価値を産み出しているのかを考えることもありませんでした。

 

それが、会社員を退職して、自分は圧倒的な消費者であることに気づきました。そして、価値生産をしてお金を手にするということの、一対一の対応を目の当たりにしたとき、自分の生きる道は価値生産にあるのではないか、という思いが強くなってきました。

 

そういう目で周りを見たときに、価値生産をしてその対価を受け取るという、言葉にしてしまえば当たり前のことですが、そういう仕事をしている姿が目に入るようになりました。単なる消費者であると同時に、いま消費している価値の背景にはどのような生産の過程があるのか、という視点を持つようになりました。

 

たとえば、ラーメン屋は、個人では手に入れることのできない量の鶏がらや豚骨を仕入れて、大きな寸胴でスープを作る。これを美味しいと思ったお客さんが、ラーメンに価値を感じてお金を払う。また、ユーチューバーは、企画から撮影、演者となり編集に至るまでをこなして、視聴者が面白いと思う動画を作り、それを見てもらうことで広告収入を得る。楽器屋の修理工の人は、不具合のある楽器を自分の技術でメンテナンスして、問題なく演奏できる楽器を提供することで対価を得る。

 

いずれも、価値のあるものを生産して、それを提供することで対価を得て生活をしています。そんな風に、自分も消費者に価値を認められるようなものを生産するという生き方をしていきたいと思っています。そして、なんとなくですが、それは形あるものである方が、自分に合っているように思うのです。

 

以前読んだ本で、アフリカのナッツ工場を創業して経営した佐藤芳之さんの本にこんなことが書いてあったのを思い出しました。

 

 

そこには、タンジブルという言葉が紹介されていました。タンジブルというのは、触れることのできるものという意味で、タンジブルなものの価値は、言葉で説明しなくても、それに触れたときに伝わるのだそうです。

 

少し拡大して解釈すると、説明しなくてもその良さが分かるもの、ということでしょうか。そのものの良さが、五感や感性を通してダイレクトに心に突き刺さるものを作れば、価値を認めてもらえるということです。