観察力を養うこと

こんにちは、やなべです。

 

先日、とある発信者の方が、発信とは自分の中にあるストーリーを語ることであるという話をされていました。そして、ストーリーの典型が学びであり、何かのきっかけにより以前と現在ではこのように物事の捉え方が変わりました、というものです。きっかけは、読書であったり日常の出来事だったりするのですが、いざ実践しようとすると、特に日常のできごとから学びを得るには、修練が必要であることが分かります。具体的には、観察力を鍛えて学びの解像度を上げるということだと思うのですが、そのために何が必要なのかを、今回は学んでみたいと思います。

 

 

仮説のサイクルの無限ループ

結論から先に言うと、良い観察がされている状態というのは仮説のサイクルが無限ループしていることです。仮説のループというのは、仮説を起点として、対象の観察が行われることで問いが生まれ、新しい仮説に更新されるという循環です。例えば、万有引力が存在するという仮説を通して日常のできごとを観察したときに、リンゴが木から落ちる事象から、何がリンゴを地面に引き付けているのか?という問いが生まれていくというように、仮説を通して事象を見ることで循環します。

 

なぜ仮説の言語化が必要なのか

人間は、完全に客観的に観察することはできず、まず脳の中で何を見ようか先に決めていて、脳が見たいものを追認するように見ているのです。つまり、認知が先にあり、無意識に認知に沿うように現実を解釈しようとします。この無意識をできるだけ意識に上げるためには、まず目に見える対象を言語化して、仮説と対象のずれを観察することが必要となります。また、現代は情報が溢れていて、調べればすぐに分かるようになるかもしれませんが、敢えてそういうものを手放し、仮説だけを武器にすることで、観察力が磨かれていきます。

 

観察は人間の学習過程

学ぶという行為には段階があり、①まずスキルを身につけることで無意識的に行えるようになる学びで、その上で、②身につけているスキルを意識的に行えるようにする学びがあります。観察することは、この意識的に行う学びの段階に関係しており、そこでは仮説の無限ループが起きており、いつまで経っても分かる状態にはなりません。この分からないという、あいまいな状態を受け入れ続けることが、学んでいるということなのです

 

あいまいであることは、何もしないこととは違います。学ぶ前の状態は、あいまいを受け入れているのではなく未分化の状態です。学びはそこから始まり、まずは上記の①の段階として、型を模倣して無意識的に型が身につけることが有効です。この学びを前提として、②の段階に移り、仮説と観察を繰り返して、答えのないあいまいの世界に踏み込んでいきます。分かるということは、あくまでも①の段階の到達点であり、学習の目的ではありません。

 

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私たちが通常分かると言っているのは、意味合いとしては知っていることと同義なのだという一節に、はっとさせられました。知識を使いこなせるようになるのは、あくまで学習の途中段階なのです。本を読んだり、膨大な情報から何かを調べたりすることは理解するためには必要なことです。まずは、それをしなければ観察を伴った学習の段階に進むことはできません。大切なのは、理解したという状態で学習を止めないことでむしろそこから、無限の仮説のサイクルが始まるのです。

 

そう考えると、学びのストーリーを発信するというのは、継続的な仮説のサイクルの途中を公開することになるのではないかと思います。仮説を通して現実を観察し、現実は仮説と比べてどう違っていたか、という視点で記事を書くことで、学びが生まれるという仮説を立ててみました。ブログを書くということは、言語化することが前提にあるので、仮説のサイクルを回すのに適した表現方法です。まずはこの仮説のもと、記事を書くことを試してみたいと思います。