カラマーゾフの兄弟を読んで

こんにちは、やなべです。

 

先日、ドストエフスキー罪と罰を読んだ感想を記事にしました。登場人物が多くてその呼び名も様々あり、まずは人物像を把握するのが難しいところから始まり、さらに人物の詳しい説明がサイドストーリーのように展開されているので、本筋以外のところで時間と労力を使い、なかなか読み進めるのが難しい作品でした。しかし、読了感はかなり感じられ、一度読むだけでは追いきれなかったストーリーをもう一度読んで確かめてみたいという気持ちにもなりました。

 

音楽でもそうですが、長いストーリーを把握するためには、まずは何度も聴いて全体像がなんとなく頭に入るようにして、少しずつ細かいところが分かってくるという方法を取るしかないのかなと思いました。そして、ドストエフスキー罪と罰よりさらに長大で、登場人物の関係も複雑なカラマーゾフの兄弟を今回、読んでみることにしました。一度では分からないところもあったので、例によって中田敦彦さんの動画で補足して理解しました。

 

 

大まかなストーリーとしては、フョードルという零細地主とその子供の兄弟である、ドミートリイ、イヴァン、アレクセイの3人を中心に展開する恋愛模様とその後に起こるフョードル殺人事件の真相解明、そしてキリスト教のいう神は存在するのかというテーマで話が展開していきます。

 

私は、初見で読んでみて、恋愛と殺人事件の展開は本筋と認識できたのですが、キリスト教のテーマはよく分からないので読み飛ばしてしまいました。あとで中田敦彦さんの動画を見て、そのテーマの部分である、イヴァンとアレクセイとの酒場での会話が前半のハイライトであるとことを知って、もう一度読んでみようと思った次第です。

 

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本作を読み進めていくと、父親のフョードルは何者かに殺害されるのですが、その嫌疑が息子のドミートリイにかかります。裁判では、状況証拠がいくつか提示されたあと、ドミートリイ本人が書いた犯行声明ともとれる手紙が提示されたことで、彼は有罪判決を受けてしまいます。シベリアでの労働が言い渡され、獄中でドミートリイは自分が罰を受けたことで、これまでの人生での自身の行いを振り返り、これからは新しい自分として人生を歩んでいくことを決意します。

 

罪をかぶって罰を受けることとなった彼の心境を考えたときに、父親殺害という事件だけでなくこれまでの自分の人生の中で、罪を犯してきたという自覚が生まれただけでなく、実は心の底では罰されることを望んでいたのかもしれないと思いました。キリスト教では罪は許されるとされていますが、それは何をしても良いという訳ではなく、罪を犯したら罰を受けるという過程を必要としているのではないでしょうか。

 

法律上の罪だけでなく、私も身に覚えがありますが、大小はあれ色んな罪を犯しています。それは、人間が未熟だからで、人との関係の中では他人を傷つけてしまうことが避けようのないことです。その度に、罪悪感を覚えて生きていくのはあまりにも辛すぎるから、何か大いなるものから罰を受けて許されるというのは、ある意味救いなのかもしれません。