学びの解像度を上げるために

こんにちは、やなべです。

 

ブログ記事を毎日書いていると、わりと常にネタを考えているようになります。最近は小説を読みまくって、あらすじと感じたことをまとめるようにしているのですが、本当は、日々の生活の中での気づきを文章化し、読者と共有したいと思っています。その領域に達するために、まずは学びの解像度を上げることを目標に、以下のようなことを試行錯誤をしているところです。

 

  • 他人の人生観に触れる
  • 小説を読んで登場人物の人生を体験する
  • 気づきを文章化する

 

他人の人生観に触れる

学びは、他人の生き方から得られることが多いです。人生観は、その人の直観と実践の集積から得られるものだからです。親しい友人であれば、居酒屋で酒を飲みながら、人生観を語り合うことができますが、仕事を含めた大人の人間関係のなかでは、相手の言動や行動を観察して、行動原理を見つけることが大切になります。感情や論理を取っ払ったところにある、その人の想いを探り出すのです。

 

小説を読んで登場人物の人生を体験する

他人をより深く観察するために、小説を読んで登場人物の人生を体験することが練習になるのではないかと思います。小説には人生がギュッと詰まっています。登場人物のセリフや行動などの描写から、どういう哲学でそのような行動をしたのかと想像することで、現実の世界の観察も豊かになっていくのです。

 

気づきを文章化する

ブログを書き始めて学んだことですが、気づきは文章化して始めて、はっきりとした形になり血肉化されていく、ということです。言葉で語ることでも同じような効果があるのだと思いますが、アウトプットすることで、思考が認識できる状態になるのです。特に文章にすると、頭の中にあったものが目に見える形になるので、それを読み直したり修正したりするうちに、ブラッシュアップされるのです。

老人と海を読んで

こんにちは、やなべです。

 

今回は、これまでにない種類の小説を読んでみました。まとめてしまえば、漁師の老人が海で巨大魚と格闘の末に手に入れるものの、寄港するまでにすべて鮫に食べられてしまうという話です。壮絶な三日間の末に老人が得たものは、巨大魚の骨だけでした。老いという主題でこの作品を捉えたとき、老人の境遇は作者のヘミングウェイ自身のそれと重なります。

 

 

老人と少年

メキシコ湾の港町に、小舟で漁をする老人がいました。彼は、若いころに腕相撲大会で一晩中戦い、相手を負かしたという経験をもつ強者です。老人となった今も、全盛期を思わせる強靭な肉体を有していますが、近頃は漁がふるわず、二か月以上釣れていないという有様です。老人を慕う漁師の少年は、当初老人と漁をともにしていましたが、結果が振るわないため、両親から別の漁師の舟に乗せられているのでした。漁の前日、老人はいつものライオンの夢を見ます。

 

巨大魚との遭遇

翌朝、まだ暗いうちに外洋に向けて舟を漕ぎだします。途中、釣れた小型のマグロを餌としてロープを垂らしていたところ、昼すぎに重いあたりがありました。老人はロープを引こうとしますが、びくとも動かず、それどころか魚は巨大な力で舟を引こうとします。巨大魚と老人の戦いが始まりました。魚と老人の膠着状態は夜通し続き、翌日の明け方になり、老人は魚に、死ぬまで付き合うぞと声をかけるのです。

 

巨大魚との戦い

老人は、片方の手でロープを引きながら、もう一方の手で少年がくれたマグロを食べます。そのうち、左手が引きつり手が開かなくなりました。そのとき、魚が一瞬海面に姿を現し、その大きさが舟よりも大きいことが分かります。こうしているうちに、夜が訪れます。老人は両手にロープを巻き付けて仮眠をとることにします。夢にはまた例のライオンが出てきましたが、ロープが引かれて目が覚めます。

 

翌日の日の出のころに、魚は舟の辺りを周回し始めます。ここからが本番だと意気込んでロープをじわじわと引き寄せると、魚は少しずつ海面に近づいていきます。老人の体力は限界に近づいていました。魚はついに海面に上がってきます。老人は、魚を突き刺す銛を獲物の心臓に向かって、渾身の力で突き刺します。獲物は死に、血が流れ出しました。老人は獲物を舟に括り付けて、港に向かい進路をとります。

 

鮫の襲来

時間は正午ごろになっていました。獲物から出ている血につられて、今度は鮫が襲ってきます。鮫は獲物の肉にかぶりつき始めます。老人は、鮫に向かって銛を突き刺し、撃退しますが、また次の鮫がやってくるのです。そのうち、銛を鮫に奪われ、今度はナイフを付けたオールを突き刺します。そうしているうちにも、獲物の肉はどんどん鮫に奪われていきます。ナイフが折れてしまうと、梶棒で応戦します。夜になっても鮫は獲物を食いちぎり、ついには全部食べつくしてしまいます。

 

再び老人と少年

老人は、ついに負けたと思います。港に帰り着くと、マストを担ぎ自分の住む小屋に戻り、寝てしまいます。翌朝、少年が小屋を訪れると、老人はまだ寝ていました。老人の手の傷を見るにつけて、少年は泣けてきました。その後、熱いコーヒーを老人のもとに持っていき、老人の目が覚めるまで付き添うのでした。目を覚ました老人は、少年とまた漁に出ることを約束して、また眠ってしまいます。また、いつものライオンの夢を見るのでした。

 

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冒頭でも書いたように、この小説を通して、老いや衰えとどう向き合うかを考えさせられます。時系列は前後しますが、作者のヘミングウェイもまた、航空機事故で強靭な肉体を失ったことにより、精神を病んで自殺してしまうのですが、これまでできたことができなくなるということは、誰もが遭遇する課題です。私も、老いではありませんが統合失調症という病気で以前のようには働けなくなり、もどかしい思いをしています。

 

自分はもっとできるはず、そこに希望を見出して、今までとは違う方法で経験と能力を発揮していくことが未来につながると信じています。老人は、漁での負けを認めたものの、今回は運がなかったとして、また挑戦し続けるのではないでしょうか。今度は少年に漁を教える立場として、まだまだ現役として、少年と一緒に漁に出て欲しいと願うばかりです。

海と毒薬を読んで

こんにちは、やなべです。

 

日本文学の名作を読み漁っています。海外文学作品に比べると、ボリュームとしては短いのですが、一行ずつ慎重に読み進めていくからこそ、表現の巧妙さや文の流れの自然さに気づかされることが多いです。今回は、キリスト教作家として有名な遠藤周作の海と毒薬を紹介します。聖書という成文の倫理規範のあるキリスト教からみた、日本の個々人の倫理観の危うさを描いた作品です。

 

 

勝呂医師との出会い

肺病のため気胸治療を受けていた私は、西原という住宅街に引っ越したおりに、新しい医院を探していました。見つかったのは勝呂医院で、勝呂医師は不愛想ながらも技術は確かなのでした。ふとしたことから、私は勝呂が九州の大学病院出身であることを知ります。たまたま、その病院のある市で義妹の結婚式があり、参加者に病院関係者がいたことから、戦時中に勝呂がかつて米軍捕虜の生体解剖実験に関与していたとしていたことを知ります。

 

勝呂の過去

勝呂の勤務する大学病院では、医学部長の大杉が急死したことにより、跡取りの騒動が起こっていました。勝呂の師匠である橋本教授が順当にいけば医学部長に昇進するはずでしたが、対抗馬の権藤教授が軍部とのつながりをもち、勢力拡大しているところでした。実績を作るため、橋本は大杉医学部長の親族の結核患者の手術をするのですが、あろうことか失敗してしまいます。

 

病院では、結核患者に実験的な手術が行われていました。勝呂の担当患者も、余命いくばくもないところ、助教授の柴田医師が新しい手法を試すというのですが、手術前に自然死してしまいます。自らの出世のため、自身の医学的興味のために、手術で人命が失われていることに衝撃を受け、勝呂医師は自暴自棄になりますが、同僚の戸田医師は冷静に、医学とは犠牲の上に成り立つもので、とりわけこの時代は、空襲でも大勢の人が死んでいるのだから、手術で死ぬことくらい驚くことではないと言います。

 

勝呂の担当患者が死んだ日の夜に、勝呂と戸田は助教授の柴田医師に呼ばれます。橋本教授が先日の手術失敗により、部長選では劣勢に立たされている。そこで、対抗馬の権藤教授と手を組んで、米軍捕虜の生体解剖実験をすることになったので、参加してもらいたいと言うのです。自暴自棄になっていた勝呂は、よく考えもせず承諾します。しかしふと、これは逃れられない運命である気がして、もし運命の流れから自由にしてくれるものが神ならば、神はいるのかと戸田に言います。

 

上田看護婦の手記

上田看護婦は、生体解剖実験に参加したうちのひとりです。かつて、彼女は結婚しており、満鉄勤務の夫の転勤により大連に住んでいました。しかし、そこで死産し、のちの手術により子供の産めない身体になってしまいます。さらに、夫の浮気が原因で離婚をして日本に戻ると、もといた大学病院で働き始めます。そこでは、橋本教授の奥さんであるヒルダという外国人が病棟で慈善活動をしていました。

 

ある日、患者が自然気胸で苦しんでいるときに、上田は医師の指示により麻酔薬を打とうとします。すなわち、治療せずに患者を安楽死させるということです。それを元看護士のヒルダに発見され、殺す権利は誰にもない、あなたは神の罰を信じないのかと言われ、謹慎処分になります。もう大学病院を辞める覚悟でいたとき、橋本の助手である浅井医師から、生体解剖実験の話を持ち掛けられます。

 

戸田の手記

手記のもう一人は、勝呂の同僚の戸田のものです。戸田は医者の息子で、成績優秀の模範生でした。先生からは特別扱いを受けていましたが、大人の見ていないところではものを盗んだり、いじめを放置したりする子供でした。どうすれば大人が喜ぶかを熟知していた戸田は、他人の目や社会に罰せられることのみを恐れ、良心の呵責を感じない人間に育っていきました。

 

大人になってからも、戸田は従姉を姦通したり、女中を妊娠させて堕胎させたりするのですが、その事実は世間に知られることなく、罰を受けることもありませんでした。戸田は勝呂と空襲時の偵察のため病院の屋上に上りますが、そこで鈍いうつろなうめき声のようなものを聞きます。そのとき、彼は自分がいつか半生の報いとして罰を受けることを悟ります。しかし、あくまでそれは社会の罰に対しての恐怖であり、自分の良心に対してではないのです。

 

生体解剖実験の当日

ついに、生体解剖実験のときが訪れます。勝呂は手術室のノブを握ったときに、はじめてこれから自分が人間を殺そうとしている実感を得るのです。米軍捕虜は、これから何をされるか分からず、医者を信用している様子です。勝呂はこの状況に耐えられなくなり、部屋から出ていきたいと申し出ますが、聞き入れられず、手術室の後ろの方で解剖の行く末を見守ることになります。

 

見かねた戸田が、捕虜に麻酔をかけていきます。やはり参加を断るべきだったと後悔する勝呂に、自分たちは同じ運命に加担してもう進んでしまっていると言います。勝呂は目をつむり、自分は殺人ではなく、いつものように本当の患者を手術していると思い込もうとしますが、そのうちに肺を切除された捕虜は死んでしまいます。

 

その後の勝呂と戸田

生体解剖実験の後、勝呂は大学病院を辞めることを決めます。一方の戸田は、別のことで苦しんでいました。生きた人間を殺しても、良心の呵責、自責の念、後悔のような感情が起こらなかったからです。勝呂は、戸田に苦しくはないのかと尋ねますが、戸田は良心なんて考え方ひとつでどうにも変わるものだと言います。また、世間の罰を受けたところで何も変わらない、なぜなら自分たちを罰する人もまた、同じ状況に置かれたら自分たちと同じことをするかもしれないと思うからだと言います。

 

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キリスト教のように心の規範が文章化されていないことで、日本人の良心は周囲の状況や自分の立場により、いくらでも変わってしまう恐ろしさを描いた作品でした。この事件の後、裁判が開かれて生体解剖実験の関係者には刑が下るのですが、そうなる未来を予感しながらも、良心の呵責に襲われることなく、実験は行われてしまうのです。恐ろしいのは、人体実験に加担することを積極的に良しとしない人も、流れに飲み込まれてしまうということです。大多数の人が、なんとなく周囲の状況に合わせて心を変えていくうちに、良心の呵責を感じなくなっていくという物語でした。

雪国を読んで

こんにちは、やなべです。

 

今回は、川端康成の雪国を読みました。誰もが美しいとみとめる日本語が読みたい、そう思い手に取りましたが、たしかにどの箇所を切り取っても、情景をはっきりと想像させる、まるで映画をみているような気分になりました。特に物語最初の汽車のところ、そしてなにより最後の雄大な天の河の描写が、物語の突然の終わりと両輪をなすように、読了したときの記憶に印象的に残ります。

 

この物語のあらすじを起こそうと思い、試しに書き連ねてみると、どれもが重要でうまくまとめることが難しいことが分かりました。それはおそらく、視点である島村がたまにしか訪れない雪国の、物語では語られない部分が膨大にあることを意味しています。それでも、骨格のところを繋げてなんとか、話のつながりを追ってみたいと思います。

 

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親の遺産で暮らす、妻子持ちの島村は列車でとある雪国を訪れます。そこには、懇意にしている駒子という芸者がいるのです。駒子との出会いは前回の訪問のときに遡ります。このとき芸者手伝いの駒子は、座敷を訪れて島村と情を通じる間柄になったのでした。

 

駒子は否定しますが、彼女には踊りの師匠の息子である行男のいいなずけであるという噂がありました。一方、行男は病気のため、故郷である雪国にある女性と帰省するところ、島村とたまたま列車を同じくするのでした。あとからその女性は、駒子の知り合いであり、名前は葉子ということが分かります。

 

島村は駒子が日記をつけていることを知ります。そこには、読んだ小説の登場人物と関係が書かれており、島村はそれを徒労だと感じます。すると、駒子の身の上も、ついには自らの生き方にも徒労を感じると同時に、知りあいになった葉子が、それを見抜いているのではないかと思い、狼狽します。

 

駒子の見送りで、島村が東京に帰るとき、葉子が行男の危篤を告げにきます。しかし、駒子は行男のもとには向かおうとせず、島村の説得にも応じません。結局、駒子は行男の最期に立ち会うことはありませんでした。

 

島村は再び雪国を訪れます。前回の訪問のあとに行男が亡くなったことを知り、駒子を墓参りに誘うのですが、駒子は、自分には関係のないことだと怒りだします。なんとか説得して、途中で合流した葉子と三人で墓の前に立つのですが、駒子は最後まで手を合わせようとはしませんでした。

 

その後、葉子が島村のもとを訪れます。葉子は島村に、駒子のことをよくしてやってくれとお願いしますが、島村はどうもしてやれないと答えます。すると、今度は自分を東京に連れて行ってくれるように頼みます。島村はなぜそうしたいのかと尋ねると、以前駒子が葉子に、あなたはこのままでは気がちがってしまうと忠告したと言い、葉子は駒子を憎く思います。

 

このことを島村は駒子に話します。すると駒子は、葉子のことを荷物であると言い、葉子を東京に連れて行ってくれと言います。島村は、それを聞いて駒子にいい女だと言います。島村は、純粋にそう言ったつもりなのですが、駒子には女として、という意味に聞こえて、ばかにされていると思い、悔しくて泣き出してしまいます。

 

島村がそろそろ東京に帰ろうとしているとき、駒子と外を散歩していました。ちょうど、夕刻になったとき、町で火事が起きます。慌てる二人ですが、ふと空を見ると天の河に体が浮き上がっていくように感じます。そのとき、火事のある建物の二階から、葉子が落ちてきます。駒子は駆け寄り、葉子を抱え込みますが、それを見ていた島村は、駒子が自分の犠牲か刑罰を抱いているように思います。

読書を通して考えること

こんにちは、やなべです。

 

ブログを書きながら、価値ある文章とは何なのかを考えています。

 

私は、これまで消費をひたすらに繰り返してきました。仕事ですら、何の価値があるのかが分からず、毎日を過ごしていました。その結果、精神を病むことになり、ついには会社員を離脱することになりました。そんな自分が絶望の先に見つけたのは、修練して価値創造する側にまわるという、新たな生き方を模索することでした。

 

ブログを書き続けるのは、文章で価値創造をしたいと思うからです。そして文章の価値とは、読み手の心を動かすということです。名作と呼ばれる文章には、心を動かすための秘密があるはずだと思い、読書をしています。まず、本当にすごい文章というのは、心を動かす程度では済まず、えぐるような力があります。こうした文章には、心の根幹に訴えかけてくるものがあります。

 

心の根幹というのは、人生観だと思います。普段誰もが気づかないふりをしている人生の軸があり、それを文章化することで、心の深いところで感情移入するのです。文章の力というのは、人生観を意識させて共鳴させるところにあると思います。では、どういう文章にそのような力が宿るのかというと、これは私にはまだ分かりません。さらに読書を続けることで、心を動かす文章とは何かが分かるかも知れません。

 

ヒントとなりそうなのは、私がブログを始めたきっかけとなった人の「発信力とは、生き様で人の心を動かすこと」という言葉です。生き様を文章化することは、人生観をさらけ出すということに近いものがあります。人には、人生観を共有したいという願望があります。人生観を共有することで、相手とより深くつながることができます。だからまずは、自分の生き様を開示すること、そしてどんな人生観で生きているのかを文章化すること、それが価値ある文章の端緒となるのではないかと思います。

こころを読んで

こんにちは、やなべです。

 

先日の記事で、太宰治人間失格を取り上げました。人間失格は、日本で最も読まれている小説のひとつで、それと双璧をなすのが夏目漱石のこころです。私の高校時代に教科書に掲載されていて授業で取り扱ったのですが、ざっくりとした内容以外は忘れてしまったので、もういちど読んでみようと思いました。

 

 

大学生であるこの小説の主人公は、鎌倉で先生と呼ばれる人物と出会います。先生は穏やかで教養もあるのですが、どこか暗い過去を背負っているような陰のあるところに主人公は惹かれていきます。先生の妻の静によれば、昔はもっと明るい人であったとのこと。疑問に思った主人公は過去の話を先生に訪ねてみるのですが、信頼するあなたにいずれお話しますとだけ言われて、その場では答えてくれません。

 

主人公は、父の危篤の知らせを受けて、先生のいる東京から実家へと帰省します。その矢先、明治天皇崩御乃木希典の殉死があり、時代が変わろうとしているときに、父の体調も悪化していきます。実はこのタイミングで、先生は自殺をします。そして、主人公は、自分のもとに届いた先生の遺書から、先生の過去を知ることになるのです。

 

遺書に登場する人物は、主に次のとおりです。

  • 先生:当時大学生で東京に下宿をしている。
  • 先生の友人:金銭の困難のため、先生が下宿に引き入れる。
  • 下宿先のお嬢さん:現在の先生の妻

遺書には、この三人をめぐる恋愛関係が語られていました。

 

先生の友人は、勉学に非常にストイックで恋愛など無縁の存在であったのですが、あろうことか下宿先のお嬢さんに恋をします。その気持ちを伝えられた先生は、友人がこの恋を諦めるように仕向けます。なぜなら、先生もまた同じ女性のことが好きだったからです。そして、先生は友人よりも先に結婚を申し込んでしまいます。友人は、その後自殺をしますが、その原因は誰も分かりませんでした。

 

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さて、二人の自殺の動機とは何だったのでしょうか。まず、友人の方は、失恋と友の裏切りが直接の動機というのは、なんとなくそれだけでは理由として納得できないところがあります。実は、物語の途中で友人は自殺を考えていることを仄めかす場面があります。それは、おそらく自分の生き方に自信が持てなくなった、ということなのではないかと思います。

 

友人は勉強して自らを向上させることのみを生きがいにしてきました。ところが、大学生となり下宿をして、実家との不和により仕送りを止められて生活困窮します。そのような身の上で、ふと将来への不安と孤独を感じたのではないでしょうか。ストイックな性格から、今までの自分を変えることは、友人にはどうしてもできなかったのです。それでも、静への恋心を抑えることができず、自分を恥じていたところに、向上心のないやつは馬鹿だ、という言葉をかけられ、いよいよ自分を追い詰めていったのではないでしょうか。

 

先生の自殺の方はどうでしょうか。先生は人間の醜さに人一倍敏感でした。もともと先生は資産家の息子だったのですが、両親の死後、叔父に財産の管理を任せたことにより、使い込まれてしまいます。信用していた人が、何かのきっかけに悪人になることを、先生は恐れていたのです。しかし、静をめぐって先生は、友人を蹴落としてでも静を手に入れようとしました。他でもない、自分が悪人になったことで、生き方が変わってしまったことに、先生は耐えられなかったのです。そんなときに、明治天皇崩御という時代の終わりに接して、自殺を決行したのではないでしょうか。

 

誰にでも、こころの中に生きる軸のようなものがあります。その軸は人生を生きる指針のようなものです。指針に沿っているときにはあまり感じないかも知れませんが、何かの拍子に指針が無くなってしまったり、それに沿えないような事態になると、人間は露頭に迷うことになります。そのときになって初めて、軸の存在に気づくこともあると思います。

 

軸というのは、アイデンティティと言っても良いかもしれません。自分が自分である故は、所属している組織だったり、時代だったり、信条だったりします。時代が変わるときに不安が起こるというのは、自分のアイデンティティが揺らぐからなのだと思います。そんなときに、人は孤独を感じます。孤独を感じる人は、生きる指針を無くしてしまった人なのかも知れません。

 

しかし、ここで必ずしも悲観するのみではないとも感じます。新しいアイデンティティの獲得を目指すというやり方もあるのではないでしょうか。それには、時間と労力と柔軟性が必要になります。これまでのアイデンティティが否定されたとしても、そこから生まれた現在の自分がいることは間違いありません。その上で、新たな軸を設定できるかどうか、自戒を込めて言えば、そこに生きる道を模索するのも、決して間違ったことではないと思います。

愛するということを読んで

こんにちは、やなべです。

 

愛とは何かということを、考えたことはあるでしょうか。私も、これまで人並には恋愛もしてきましたが、愛ということを真剣に考えたことはありませんでした。一時の感情なのか、末永く続ける努力なのか。どうすれば、愛し続けることができるのか。そんな疑問があったことを思い出して、この本を手に取ってみました。

 

 

愛は、孤独からの脱却であると、筆者のフロムは言います。人間は、孤独をいかに克服するか試行錯誤をしてきた歴史があります。かつては、お祭りなどの行事を通して、自分の所属する集まりへの帰属意識を高めることにより、孤独を一時的に感じなくするという手段がとられていましたが、それができなくなった現代においては、悪い方向に進むと酒や麻薬に溺れてしまったりします。

 

そこで、現代においては同調という方法により、孤独から逃れる手段をとっています。同調とは、周囲と同じことをするという意味で、たとえば朝早く起きて会社に行き、分担された仕事をすること、休日は流行りの映画を見ることなどです。このように、自らを型にはめることで、人は孤独を忘れることができましたが、それと同時に、人間本来の希望や失望、悲しみや恐れ、愛への憧れをも感じなくなってしまいました。

 

そういう意味で、同調による一体感というのは、偽りであるといえます。では、他者との一体感という根源的な人間の欲望を満たすために必要なのは何なのかといえば、それが他でもない愛なのです。ここで言う愛は、恋愛に限ったものではなく、母性愛、友愛、人類愛などの広く周囲を愛することを指しています。もし一人しか愛さず、その他には無関心であるならば、それは本当の愛ではありません。周囲のすべての人に対してどう関わっていくかの方向性を決めるのが、愛なのです。

 

成熟した愛とは、相手に何かを与えることを喜びとする能動的な行為です。自分の持つ喜び、興味、知識、ユーモアなどを相手に与えることが、自分を豊かにするのです。こうした、与えるという行為をするためには、人格が発達していないといけません。たとえば、母親からの無償の愛を恋人に求めたりすることは、与える愛とは対照的です。求める愛をしているということは、精神年齢がまだ子供であるということで、そこからは愛による一体感は生まれません。成熟した愛とは、自分の全体性と個性を保ったまま、相手と結合することで、孤独感を克服するのです。

 

つまり、愛することは、人格を磨いて習得する技術なのです。そのためには、理にかなった信念を持つことが修練になるのだと筆者は言います。理にかなった信念というのは、自分の経験や感情に基づいた確信のことです。確信を持つに至ったときの確かさと手ごたえをもとに、変わらない信念を形成していくのです。これが、自分は自分であるという確信につながり、相手を信じることにつながるのです。