愛するということを読んで

こんにちは、やなべです。

 

愛とは何かということを、考えたことはあるでしょうか。私も、これまで人並には恋愛もしてきましたが、愛ということを真剣に考えたことはありませんでした。一時の感情なのか、末永く続ける努力なのか。どうすれば、愛し続けることができるのか。そんな疑問があったことを思い出して、この本を手に取ってみました。

 

 

愛は、孤独からの脱却であると、筆者のフロムは言います。人間は、孤独をいかに克服するか試行錯誤をしてきた歴史があります。かつては、お祭りなどの行事を通して、自分の所属する集まりへの帰属意識を高めることにより、孤独を一時的に感じなくするという手段がとられていましたが、それができなくなった現代においては、悪い方向に進むと酒や麻薬に溺れてしまったりします。

 

そこで、現代においては同調という方法により、孤独から逃れる手段をとっています。同調とは、周囲と同じことをするという意味で、たとえば朝早く起きて会社に行き、分担された仕事をすること、休日は流行りの映画を見ることなどです。このように、自らを型にはめることで、人は孤独を忘れることができましたが、それと同時に、人間本来の希望や失望、悲しみや恐れ、愛への憧れをも感じなくなってしまいました。

 

そういう意味で、同調による一体感というのは、偽りであるといえます。では、他者との一体感という根源的な人間の欲望を満たすために必要なのは何なのかといえば、それが他でもない愛なのです。ここで言う愛は、恋愛に限ったものではなく、母性愛、友愛、人類愛などの広く周囲を愛することを指しています。もし一人しか愛さず、その他には無関心であるならば、それは本当の愛ではありません。周囲のすべての人に対してどう関わっていくかの方向性を決めるのが、愛なのです。

 

成熟した愛とは、相手に何かを与えることを喜びとする能動的な行為です。自分の持つ喜び、興味、知識、ユーモアなどを相手に与えることが、自分を豊かにするのです。こうした、与えるという行為をするためには、人格が発達していないといけません。たとえば、母親からの無償の愛を恋人に求めたりすることは、与える愛とは対照的です。求める愛をしているということは、精神年齢がまだ子供であるということで、そこからは愛による一体感は生まれません。成熟した愛とは、自分の全体性と個性を保ったまま、相手と結合することで、孤独感を克服するのです。

 

つまり、愛することは、人格を磨いて習得する技術なのです。そのためには、理にかなった信念を持つことが修練になるのだと筆者は言います。理にかなった信念というのは、自分の経験や感情に基づいた確信のことです。確信を持つに至ったときの確かさと手ごたえをもとに、変わらない信念を形成していくのです。これが、自分は自分であるという確信につながり、相手を信じることにつながるのです。